ほっとけやん 第13話

わかやま新報2008年6月5日掲載

共同作業所がうまれる原動力 なぜ共同作業所が…

麦の郷理事長 田中 秀樹

私がたつのこ共同作業所に関わることになるルーツは学生時代にさかのぼります。
教師を目指して学んで(?)いたころ、障害児教育研究会の活動で、在宅になってしまっている障害児者の訪問活動をさせてもらいました。
当時、養護学校義務制実施は戦後からずっと先送りされ、障害が重い場合には就学の年齢になっても入学通知が送られてこないことがありました。それは「障害」を理由に就学を「猶予又は免除する」という学校教育法23条の規定によるもので、それにより当時は学校へ行けない障害児がたくさんいました。
昭和49年には県内で190人の猶予・免除された(学齢期)人がいました。手分けして和歌山市内の在宅障害児者(学齢期超過の人も含む)の2000人近い名簿を作成し、訪問活動を始めました。
一日中、壁に向かって座るだけの生活の人、進行性の難病で末期的な人、貧しい生活を強いられている人など、学生がどうすることもできない現状、課題ばかりでした。このような訪問活動は全国の教育系大学で行われ、たくさんの事例が報告されました。
訪問した人の中にはすでに亡くなっている人も多く、当時の福井大学の実態調査では、在宅生活をしている人福祉施設に入所している人を比較すると、在宅生活を余儀なくされている人の死亡率は何十倍も高いことが報告されていました。学校に行けず、友達もなく生活をおくることは、生きる力をも奪い取ってしまっていたのです。
青臭いわたしたちの訪問活動を受け入れてくださったことに感謝するとともに、この時の自分の「力なさ」に打ちのめされた心の傷が、今の自分を突き動かしているのかもしれません。
私たちのサークルでは日曜日に「在宅になっている子ども(大人)」に呼びかけて日曜学校を開きました。月2回の日曜学校で大きく変わる姿をみた家族や関係者は毎日の学校が必要だということを確信しました。
その後、県内各地で養護学校の建設の運動がすすみ、1979年養護学校義務制実施以降の就学猶予・免除者は激減しました。その養護学校の建設運動と一緒になって共同作業所が地域で生まれ育てられてきました。
しかし、最近の麦の郷での相談・支援活動で52歳まで「粉ミルクだけで生きてきた」という人や何十年とひきこもっていた障害者が新たに見つかり、30年前に引き戻されたような、胸がつぶれる思いがしています。