ほっとけやん 第14話

わかやま新報2008年7月3日掲載

共同作業所が生まれる原動力② 育てる土壌が必要

麦の郷理事長 田中 秀樹

大学を卒業し県立盲学校へ就職した私は、重度重複障害児学級の担任として、また、入学相談などの役割を担っていました。
盲学校重複障害者の卒業後の進路状況を調べてみると、多くの人は在宅となり、多くは福井の施設へ入所していました。「県内に卒業後の進路を」ということで、育有会や教職員など学校ぐるみで運動をはじめ、盲重複障害者を一部受け入れる施設実現しました。しかし、根本的な解決ではなく、自宅から通える居場所としての作業所が期待されていました。
また、養護学校は県内各地に建設され始めましたが、その卒業後の進路問題に直面していました。新しい障害者入所施設が建設されていると学年途中でも退学し入所しました。それだけ進路は狭く選択の余地がなかったのです。
教育が受けられないことによって命を奪われていた在宅障害者の状況を知っていた私は、学業の途中で教育を受けることをあきられているということや卒業後在宅になるということは気持として受け入れられることではありませんでした。
自分の教え子が卒業後在宅にならず、何とか地域で生活を続けながら交流したり、働いたりできまいかと関係者と話し合っていた折に、卒業後の進路に心と痛めていた家族や関係者は県内に多くいましたので、進路を考える研修会や運動に参加しました。
1975年当時、すでに名古屋では障害の重い仲間が働く共同作業所が生まれており、関係者と「ゆたか作業所」を見学し、一筋の希望の光を見つけることができました。
1976年、大阪で全国障害者問題研究会全国大会が開かれた場で、関係者は来年までには作業所を開設しようと固く誓いあいました。そりて翌年、和歌山、有田、御坊、田辺、新宮の5ヵ所で共同作業所が生まれたのです。
共同作業所はある日突然生まれるのではなく、障害のある人たちや家族の願いがあり、それを生み育てる「土壌」が必要です。戦後和歌山のすぐれた責善教育や障害児教育における実践は、共同作業所づくりの運動の基本理念「人権保障」を明らかにしていました。
また、行政の支援も必要で、ゆたか作業所は、当時の名古屋市制に大きく支えられていました。市長さんは「愛知県障害児の不就学をなくす会」の会長でた。こうした障害者施策に積極的な行政は徐々に増え、それが現在県内80にもおよぶ働く場や生活支援する場を生みだすことにつながっています。