輝集人

毎日新聞2011年1月6日掲載

障害者が元気良く働く事ができる場所がある。26歳で通い始めた大阪市の作業所で初めて知った。タオルの袋詰めなどの仕事の合間に、障害者らが悩み打ち明けあっていた。トタン屋根のボロボロの建物だったが、活気あふれていた。「ぬくもりのある作業所を自分の手で作りたい」。地元の和歌山市中之島に00年、作業所「ワークショップ フラット」を開設した。
生後間もなく、脊髄に細菌が入り、両足に障害が残った。足を上げるのが難しく、歩く時はつえを手放せない。当時、県内の養護学校は上富田町の県立校1校しかなかった。同市から遠く、通うとすれば、同校近くの寮に入る必要がある。母が自宅近くの小学校に相談し、その学校へ入学することに。中学校、高校とも地元の公立校に進学し、健常者と一緒に学んだ。同級生に障害をからかわれたが、体育の授業にも参加した。

働く環境整備まだ途中

しかし、自分より軽度の障害を持つ多くの子どもが、養護学校に通っている。学校の裁量で入学先が決まることにも疑問を感じた。「足が不自由な自分にできることは何か」。ずっと追い求めてきた。
高校卒業後、和歌山市のプラスチックの加工会社に勤務。障害者が世の中でどう暮らしていくのか、漠然と考え始めてた。 8年後に退職し、タオルの袋詰めなどをする大阪市の作業所に通った。他の障害者と間近に接したのは初めて。この世界で生きたい、と強く思った。28歳で和歌山市に戻り、県共同作業所連絡会などに勤務。県内の作業所に運営の助言などをしてきた。
給与や待遇、上司との意見の対立などで多くのスタッフがやめていく現実。「スタッフがすぐに変わることは大きなマイナスになる。何年も働き続けられる環境作りが大切だ」と話す。
障害者自立支援法をはじめ国の施策に対し、「障害者が元気に働くための環境整備はまだ不十分」と感じている。障害を持つ人が身近にいることが当たり前の社会になる”まちのバリアフリー化”が進んでほしい。「障害を持つということを身近な問題として考えてもらいたい」と願う。

やまもと・いさお 和歌山県出身。県共同作業所連絡会の事務局次長。00年、難病患者・中途障害者らが対象の作業所「ワークショップフラット」を開設。現在は障害者21人が利用し、点字名刺などを作っている。