虐待対応 見直す時期

毎日新聞 2016年(平成28年)1月10日(日)

家族支援専門の公的機関必要

県の児童相談所に寄せられる児童虐待の相談件数は年々増加し、2014年度は過去最多の932件に上った。専門家は「どの家庭でも起こりうる」として、特殊な環境、一部の親によるものとの見方を否定し、子育て中の家族支援の必要性を訴える。母親の育児放棄(ネグレクト)により10歳から16歳まで児童福祉施設で育った菊矢由美さん(28)=岩出市=に自らの体験と、必要な支援について聞いた。

「施設に入るまでの記憶があまりないんです」。紀の川市で生まれ、母と姉、兄と島根県の祖母宅に引っ越した時はまだ2歳。父と暮らした思い出はなく、祖母は4歳で亡くなった。覚えているのはいつも自宅にゴミが散乱し、食事を作ってもらえずお腹がすいていたこと。風呂に入ることもあまりなかった。

小学校ではばい菌扱いされ、靴や体操服を刃物で切られるなどのいじめを受けた。恐怖から教室に入ることができなくなり、誰もいない会議室の隅で下校時間を待った。担任には「あんたらきょうだいそろってだめやね」と言われた。「誰にも分かってもらえないと諦めていた。どこにも居場所がなかった」

10歳の時、同じように教室に入れずに保健室で過ごしていた中学生の姉から話を聞いた養護教諭が、児相へ相談。きょうだい3人は児童福祉施設に保護された。清潔な環境や食事ができることにほっとしたが、学校の授業について行くのが難しくなり、中学卒業後は特別支援学校に進学した。

「生きていてもつらいことばかり」。16歳で毛糸で首を絞めて自殺を図ったが、施設で一緒に暮らす体に重い障害のある友人が前向きに生きる姿が頭に浮かび、思いとどまった。卒業後は職を転々とし、7年前からは社会福祉法人「一麦会」の事業所「ソーシャルファームもぎたて」(紀の川市)で働く。

後で知ったが、相談相手がいなかった母親は生活保護を受給できることを知らずに、ひたすら自転車部品の工場で働いていた。「家族を養おうと必死だったのだろう。でも、精神的に参ってしまったのだと思う」。恨んだことはないが、施設に保護されなければ生き抜くことができたかどうかも分からない。

もし、親子が苦しい状況だったあの当時、母親や自分たちに目を留めてくれる人が学校や地域にいたら。「そんな大人が一人でもいれば救われる子供はたくさんいる」

県立医科大の柳川敏彦教授(医学・成育医療学)は「家庭支援専門の公的機関が必要」と訴える。児童相談所には虐待が疑われる場合の一時保護や親権喪失宣告の請求など保護者から分離のと、家族支援の二つの役割がある。だが、分離だけで現場が疲弊し、家族支援まで手が回らないという。

「虐待に対応する仕組みを根本的に見直す時期に来ている」
【谷田朋美】